今回と次回は
2回に分けて " 進化 " のお話をします。
まず今回は、プロローグ。
「古代の進化論」です。
そして次回は
「反転する進化と、延長する進化」
をお送りいたします。
進化、特に生物進化と言えば
ほとんどの人がダーウィンの進化論
ダーウィニズムを連想するのではないでしょうか。
今回は、そのイメージを少し変えられたらと思います。
" 原始的な動物から、突然変異と適者生存で進化し
より高度で優秀な動物へと生命は"進化"していく。
そしてとうとう人間を生み出した‥‥"
これが、一般的なダーウィニズムのイメージでしょう。
ダーウィニズムは、
現在の生物学における進化論の基礎ではあります。
しかし、生物進化=ダーウィニズム ではありません。
また、ダーウィニズム自体が
先端科学の発見を反映して随時刷新されています。
現在スタンダードとされるものは
ネオ・ダーウィニズムと呼ばれており
オリジナルが修正されたものになっています。
なので、実は上記の文章は
ダーウィニズムにおいても
今日では正しい文章ではなくなっています。
(どこが正しくないかは最後で。)
◯ 古くて新しい進化論
生物進化という概念自体は
ダーウィンが最初ではなく
それ以前に、ラマルクの要不要説など
幾つかバリエーションがありました。
ダーウィニズムは、そうした進化についての
考え方のひとつにすぎません。
画期的とされたのは、
そのメカニズムをシンプルに定義したことと
ビーグル号の旅を通して、ガラパゴス諸島のゾウガメや
フィンチなどの生態観察で、自分の理論を検証したことでした。
それによって、生物学の進化論の基礎となりました。
しかし、ですね、
生物が進化するという発想そのもの・・・
" 生命が流転、変遷して、やがて人間となる "
という思想自体は
そのルーツを辿れば、たいへん古いものがあるんですね。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
あまり知られていませんが、日本では、江戸時代の石門心学
(神道・儒教・仏教の合一説を基盤とした江戸の倫理学)に
現代的な進化論とほぼ同じ思想を見ることが出来ます。
また、中国では紀元前300年ごろ
荘子の思想にも類するものがあります。
しかし、ダーウィンが生きた、西洋では事情がかなり異なりました。
聖書の記述で、創造が7日間で行われ
神の子である人間は
動物や他の存在と明確に区別されています。
そのため、聖書の教えを原理的に解釈した場合は
他の動物や自然物から連続的な変化の果てに
人間が生じるなどという進化はあり得なかったんですね。
だからダーウィンの進化論は
発表とともに、教会と激しく対立しました。
一方、日本を含むアジアや中南米など
つまりキリスト教などの一神教文化圏ではない国では
その発想自体は特に目新しい思想ではなかったのですね。
そういう背景もあって
ダーウィンの進化論が入ってきた時
日本を含むアジアでは、さして抵抗はなく
なるほどね~と、あっさり受け入れら、
むしろ欧米人には驚かれたそうです。
そしてその発想は、江戸の石門心学や、荘氏にとどまらず
さらに源流へと深く遡っていくことができます。
すると、
たとえば、石門心学のベースとなった神道もそうですが、
自然や万物存在と人間が一連の霊的な繋がりをもった
世界観・宇宙観である、アニミズムやトーテミズム
と呼ばれる文化にまでたどり着きます。
◆ アニミズム
日本の八百万の神を代表とする
万物に霊的存在=魂を見出し
その深い縁を見出す思想、文化。
アニマ=魂・霊性 イズム=主義 霊性主義。
多神教的、あるいは汎神論的思想。
◆ トーテミズム
自分たちの先祖が、人間だけでなく
動物、植物、石など万物であり
脈々とその魂が受け継がれて
今の私たちに伝わっているという思想。
いわば、アニミズム文化における進化論のこと。
これらは、宗教以前の「自然信仰」と
呼ばれるもので、未分化な思想と思われがちです。
ところが近年の様々な研究で、実はある面では
とても現代的であることが指摘されています。
アニミズムやトーテミズムの神話では
人間の大元(先祖)を
生命はもちろん、塵や泥、あるいは風や炎といった
無機物にまで遡るものが少なくありません。
塵や泥、炎から生命が生じ
そこから人間が生じたという考えは
原子や分子や素粒子、あるいは
エネルギーと捉えることもできるので
ある意味ではとてもモダンな面があるのです。
生物進化という近代的な概念の根底には
人類の根源的な自然観、人間観である
神話的世界へと繋がる領域があるのですね。
見方を変えれば、西洋圏は
キリスト教(一神教)文化によって
進化という古き思想を一旦失ったものの
科学という対立概念によって、その枠組みが緩み
再発見できた、とも言えるかもしれません。
なぜなら、西洋にも
ドルイドを信仰した古代ケルトなど
もともとアニミズム文化がちゃんとあったからです。
また、
古代ギリシャの初期の哲学者アナクシマンドロスは
生命は海の中で発展し、のちに地上に移住した
と主張していました。
つまり原始的な存在から人間存在に変遷する=進化する
という発想は、近代的であると同時に
とても古い、普遍性の有る思想だったんですね。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
昨年から今年にかけて上演された
シルク・ドゥ・ソレイユ トーテムは
まさにそのような視点をテーマにしていました。
先住民文化の長年のフィールドワークの末に
「野生の思考」を著し、構造主義を立ち上げた
レヴィ・ストロースや
彼を支持する中沢新一氏によれば
事物と直接向き合い、観察して
瞬間瞬間に体系化を紡ぎだしつつも
常に流動的に刷新されていく神話特有の語り口調は
発見・検証し刷新していく科学と、その思考様式が重なるといいます。
生物進化と人間の精神進化
(文化の発展、自我の発展、魂の進化など)が
構造的にフラクタルに重なり
生物進化の地図である生命系統樹が
精神進化の地図になり得る。
これがアニマンダラの中心テーマですが
この時の ” 進化 ” とは
決してダーウィニズムを指すものではなく
トーテミズムをも含み持つ
本質的な進化の概念になります。
トーテミズム的な進化と生物学的進化が、
良く似た概念構造を持っている、
とはいっても
当然ながら、大きくかけ離れたところもあります。
アニマンダラでは
二つの共通性と違いの両方に着目して
共通性から普遍性を、また
違いから新たな視点を 掘り出します。
◯ トーテミズム / アニミズム と 現代進化論の反転性
わかりやすい違いは二つあります。
一つは時空間概念。
もう一つは主体とするものの違いです。
◆ 時空間概念
生物学的進化は、5億年だとか、38億年だとか
膨大な時空間を一方方向に展開します。
しかし、アニミズムやシャーマニズムでは
現在、過去、未来が混在したり、
神道の中今のように、今この瞬間に時間が畳み込まれている、
というような、全く異なる時間サイクルを持っています。
◆ 進化の主体
科学は機械論的であるのに対して
アニミズムは、その言葉通り霊性主義です。
魂、霊魂を主体にしています。
これは精神を主体にしているということです。
つまり科学的進化論では肉体=物質が先手で
精神はその副産物。神経系の電気反応。
一方、アニミズムでは霊が主体で
肉体や物質はその顕れです。
これは重要で結構大きな違いですね。
でもよく見てみると、
この両方の違いは、ともに完全に ” 反転関係 ” があることがわかります。
単に違うのではなく、反転している・・・
言い方を変えれば、両者は
裏返しの関係だということになります。
裏返しだということは・・・
無関係に違うのではなく、むしろ両者には
強い関係性=双対性が有るということです。
コインの表裏のように、重なり合わないけれど、あわせて一つ。
そんな見方ができれば、コインの表裏を見るように
進化の全体像が浮かび上がるのではないでしょうか。
両者で一セット、進化には表裏
つまり陰陽の進化があるということです。
◯ 反転する進化と反転しない進化へ
進化の二つの概念、
アニミズム・トーテミズムと進化論は
陰陽関係だと言いました。
それを表裏としてみる眼差しは
進化に陰陽の二面性を発見することでもあります。
表を暗示する側面と 裏を暗示する側面 。
はたして進化に、
反転した対象性を見出すことができるのでしょうか。
科学的進化が表だとしたら、裏を暗示する側面は
科学的進化の中に直接見えるのではなく
『影』として浮かび上がるでしょう。
では、その影は何処に?
それを探るために、冒頭の、ダーウィニズムの定義に戻ってみましょう。
" 原始的な動物から、突然変異と適者生存で進化し
より高度で優秀な動物へと生命は「進化」していく。
そしてとうとう人間を生み出した‥‥ "
そして、これには正しくない部分があるとも書きましたね。
“ 適者生存で進化し、より高度で優秀な動物へと
生命は「進化」していく。”
・・・・ここが間違いです。
適者生存で優秀なものが進化し生き残っていく
・・・という考え方は
実はダーウィニズムが発表された時
それに影響された社会学者のスペンサーが提唱したものです。
適者生存は、ダーウィンの言葉ではなくスペンサーの造語。
ところが、この考え方はわかりやすく、また
発展主義、選民思想の国家思想と相性がよく
広く誤用されてしまったのです。
日本でも、自由民権運動の思想的支柱とされ
広く支持された過去があるので
年配の人を中心に、弱肉強食・適者生存が
ダーウィニズムだと勘違いしたままの人が結構います。
ダーウィンはもともと
自然選択という言葉を使っていました。
自然に適応したものが生き残る。
自然は、地域や場所、時代によって
常に変化していきますから
一律の優劣というのはありません。
実際に、進化の研究が進むに連れて
適者生存のように進化は直線的ではなく
一見弱者に見えるものも生き残るということが
少なくないことが解ってきました。
現代の科学では、生物の進化は
” 優劣 ”ではなく、その時その時の環境に
たまたま適応したものが生き残り
遺伝子の変化が蓄積されて、
偶然、現在のような生命を生み出した
・・・という見方になりつつあります。
たとえば、
クラゲのように殆ど昔のままの動物が
” 自然選択 ” に選ばれている一方で
恐竜のように高度に発達したものが
たくさん滅んでいるからです。
それどころか、
科学的な進化の道筋を丁寧に辿っていくと
特に人間への進化は、驚いたことに
一見弱者、不利に見える側への進化ばかりが
繰り返されているようにすら見えます。
自然選択・・・その観点から見ても
やはり優秀=高度な方が生き残りやすそうです。
ところが、ところが、
実際にはそのような見方が難しいのです。
これについては、科学で一貫した視点がありません。
弱者に見えるものが生き残ることは
たまたま運が良かっただけで、偶然にすぎない。
人間が人間へと進化できたのは、奇跡的に運が良かったから。
少し極端な書き方ではありますが
これが現在の標準的な科学的解釈です。
強者が滅び、弱者が生き残る。
ここに何やら反転した匂いが感じられないでしょうか。
進化にはどうやら、その気になって見てみれば
潜在的な ” 反転 ” が、沢山隠れているようですよ。
ということで、次回は・・・
「反転する進化と、延長する進化」へ続いていきます。