5月26日 『生命とAI』
天候に恵まれ、
おかげさまで盛況に終えることができました⭐️
ありがとうございました〜。
参加者の雰囲気から、
AIに対する関心の高さを改めて実感した1日でした。
AIに対して、
正体不明の不安を感じていたという方がいらっしゃる一方、
不思議な親近感を持ってらっしゃった方、
IT関連の仕事に従事していらっしゃる方などなど、
今回も様々な方が参加されました。
中には不思議な AIの夢を見ていて
それでずっと気になっていたという方まで。
私が人工知能について、最初に興味を持ったのは、
子供の時に見た、映画やSF小説がきっかけだったと思います。
手塚治虫の火の鳥の映画『火の鳥2772』や、
ルパン三世の映画『ルパン三世VS複製人間』、
そして何よりも鮮烈だったのは『2001年宇宙の旅』のハルなどなど。
参加者もその様な方が多く、懇親会では、
懐かしい映画や、最近の面白い作品の話題にも花が咲きました。
ちなみに最近では、
AIに二分心の概念を持ち込んだ連続ドラマ「ウエストワールド」が秀逸ですよ☆
これまでのAI作品とは角度が異なり、AIを通して、人間の本質をえぐる作品です。
そんな、SF的好奇心を掻き立てられた少年時代から時が経ち、
90年代初頭、私は、画像データベース開発で、
実際に人工知能に関わることになりました。
当時はマシンが貧弱で、ビッグデータも存在しなかったので、能力は限定的でした。
一応使えるけれど…と言った程度のもので、SFとは程遠かったのを覚えています。
ですが、既に、ディープラーニングのベースである、
ニューラル・ネットワークやエキスパートシステムなどなど、
今日話題となっている、AIアルゴリズムのベースはありました。
また、ムーアの法則など、コンピューターの指数的成長も業界では知られており、
延長に、コンピュータやAIが、高度に発展することを想像するのは、
さほど難しくありませんでした。
心や生命そのものに幼少から強い関心があった私は、
仕事を切っかけに、人工生命(AL)や、AIに心が宿るかどうか?
という問題に大きな関心を持つようになりました。
実は‥‥Animandala本家より、歴史が長かったりします(^ ^;)
Animandalaは、生物学的探求はもちろん、
人の心の謎についての形而上学的関心や心理学、
さらに神秘学や、のちに出会うヌーソロジーなどが統合されて、
カタチになっていったものです。
しかし、それ以前のAIやALを通して思索したことも、大きな礎となっています。
どうしてかと言うと、逆説的に聞こえるかもしれませんが、
AIの開発や活用について考えることは、
人の“ 思考 ”や“ 行動 ”、“ 知覚 ”から、
さらには、 心とは何か?や人間ならではとされる“ 創造行為 ”とはなど、
人という存在自体から、その土台となる、生命や進化まで、
必然的に考えていくことになるからです。
限定的であれ、簡略化したものであれ、
それらについて仮説をもたなくては、
そもそも、AIを試しに作ることも、評価もできません。
そのようなことを考えること自体が、
AI開発者やサービス提供者の仕事でもあるわけです。
情報処理の”道具“でありながら、
出自自体が、本質的問いへと誘うシステムがAIなのです。
それが今、社会を飲み込むかのような勢いで普及していこうとしているわけです。
日々、私達の目の前に現れてくるAI製品は、
開発者達のそんな仮説や意図、想いを表現したものです。
いわば、未完の仮説に基づく製品群。
それが、生活に広まっていくということは、そのような仮説による
壮大な社会実験に知らず知らずに参加すること、を意味しています。
そのような時代ですから、それに振り回されずに、正しく評価しようとするなら
これまでならマニアックだったかもしれない?笑
根源的な問いに、自分なりの見方や答えを持つようになっていくことが、
大切な時代がはじまろうとしているようです。
それは、AI時代のリテラシーといっても良いかもしれません。
そんな背景と想いがあったとことろに、
たまたま、東京のAnimandala・CELLmandala参加者から
今回のアトリウムを提案され、良いタイミングかもと想いイベントを開催することにしました。
AI狂想曲とシンギュラリティ仮説
冒頭は、参加者の関心や、理解もバラバラだと思いましたので、
AI狂騒曲と題して、昨今のトピックスと、そのムーブメントを牽引している、
googleのレイ・カーツワイル氏のシンギュラリティの仮説をアニマンダラ流に解説することからはじめました。
シンギュラリティー仮説は、レイ氏の、
“知恵や思考、心”からはじまって、
”人間”とは、”進化”とは、”生命”とは、
”神とは(宇宙意識)”までをも視野に入れた、
壮大な仮説であり、信念です。
2005年の著書「ポストヒューマン誕生」で知られるようになりました。
"AIがAIを自己改善できるようになり、進化が急加速。
人間的思考では追いつけなくなり、2045年、人間を遥かに超えた超知性が誕する。"
そんな未来予想を、AI開発のベテランである著者が論じたもの。
テクノロジーと融合した人類は、哺乳類から人類が誕生した時と同様、
あるいはカンブリア爆発に匹敵する、進化の次の段階へと入る・・・。
AIについて、シンギュラリティと言った場合、今では言葉が独り歩きし、
定義が曖昧になってきていますが、その原点は、レイ氏の著書にあります。
後半はかなりぶっ飛んでいるものの、ソフトバンクの孫社長や、テスラ社のイーロン・マスク、ホーキング博士などを始め、多くの有識者が、それをベースとした発言をするようになりました。
シンギュラリティ仮設を肯定的に、もしくは実現することを前提として警笛を鳴らしている人たちが、
技術者以上に、起業家、政治家、社会学者や、生化学者以外の学者といった層が多いところも、この流れを見るポイントです。
氏の概念は、ITテクノロジーの予想などについては、正確で論理的であるものの、
生化学とクロスオーバーが大きくなった時点で失速する可能性が高い
とアニマンダラでは考えています。
それを、いくつかの具体的事例を上げて解説しました。
また、このシンギュラリティのモデルが、アニマンダラ式系統樹とどう対応しているか、どんな意識の反映なのかを簡単にお話しさせていただきました。
AIに心は生まれるか?
続く話題は、シンギュラリティーと並んで大きな焦点になる、AIに、心や意思が宿るのか?について。
また、それと合わせて、いわば人間の心や感性の証明として語られることが多い、
創作活動についても取り上げ、絵画や作曲、小説などの事例を紹介しました。
私自身、長くクリエータとして活動していますので、他人事ではありません(笑)
また、参加者にもクリエータやアーティストが少なくなく、議論し甲斐のあるテーマでした。
星新一賞の一次選考を通過する小説を書いたAI
「気まぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」
その開発者、松原仁教授(はこだて未来大学)などをはじめ、
昨今飛び交う議論の中で、AIに心が宿ると確信している有識者が多数いらっしゃいます。
こうした議論で大きなポイントになるのが
心や意思の定義です。
テック系の人がそれを語る時、
基準とされるのが、有名なチューリングテストです。
天才数学者のチューリングは、意識や精神が、あくまで主観的体験であり、客観的には直接測定できないことを指摘しました。
AIに、君は心がありますか?と尋ねて、
『ハイあります』
と答えたとしても意味はありませんよね?
AIが心や意識を“本当に体験してるかどうか”は、外からは証明できないのです。
それを前提とした上で、外から見える振る舞いで間接的に判定する方法を、
合理的に提案したものがチューリングテストです。
それは簡単に言うと、人が、AIに人間だと騙されるかどうか。
騙されて心があると感じるかどうかで判定するものです。
外からは内的体験は判定できないので、
それは考えてもしょうがないから、振る舞いで判定しようというわけですネ。
前述の、松原教授も含め、技術者系の人は、チューリングテストを基準に心について考える方が多いようです。
しかし、そもそも人間は、高度なAIを持ち出さなくても心を感じることが、できてしまいます。(特に日本人は)。
人間以外の生命や、人が思いを込めて作ったものであれば、それは難しくはないでしょう。
人がAIに騙されて、テストをパスするのは、純粋な技術力だけでなく、
結局は開発者の、人の心に対する思いと感性、青臭く言えば想いの込めかたが成否を決めるのではないでしょうか。
つまり、“霊”を込めたかどうか。
あたかも心を持つように振る舞うAIであれば、
そう遠くないうちに、作られるでしょう。
(もうできている、と言う人すらいますが…)
そもそも、人はお地蔵さんや、仏像はもちろん、初音ミクにだって心を感じる人がいます。
また、刀匠が念を込めて作った刀には、妖気を感じたりするのですから。(妖気も一種の心の現れと言えるでしょう。)
AIに騙されることと、心を感じることは、微妙に異なりますが、いずれにしても受け手側の感性が大きく左右します。
それは、ココロを見出すことと、ココロの有無の違いです。
そんな視点で、主観的体験を論理的に扱うことの難しさと、科学的の思考スタイルの課題も考えながら、お話をさせていただきました。
AIは開発者の“人間観”をフィルターにして、それに触れた人々の心を映す鏡になっています。
では、ココロや意識があるように振る舞うのではなく、生命や人が持つような、本当のココロや意思をAIが持つことは可能でしょうか?
それには、自己と他者(客観と主観は自己他者問題です)の関係性に対して
客観視点からのアプローチだけでなく、主観側の本質的な議論と理解が不可欠です。
例えば、ベルクソンの純粋持続の概念や、ヌーソロジーの奥行き、あるいは、アニマンダラの負け組進化(垂直進化)のような概念です。
それでも人はデジタルヒューマンとなる?
東大受験に挑戦するAI、東ロボくんを開発した、
国立情報学研究所(NII)の新井紀子教授は、
AIの限界とこれからの教育の課題を浮き彫りにするために、
プロジェクトを始めたと言います。
ところがその結果、
多くの現代の子どもたちの思考様式が、
とてもAIに似通っていることに気が付き、驚いたそうです。
▲※翻訳設で日本語に変更できます
AIは、意味がわからなくとも、それっぽく字面を編集して確率的に正解率を上げます。
文章を理解するとことは出来ませんが、理解できているように振る舞い、正解の確率を上げます。
ディープラーニングの性質上そのようにしか機能しません。
現代人は、効率化やリーズナブルさ、マーケティングを追求する資本主義の現代社会にならされることで、思考が外的環境にパターン化、最適化が進んでいる側面があります。
パターン化し、効率よく、らしく、うまく振る舞い、
外的環境に最適化していく・・・
これをアニマンダラでは水平進化(外骨格系進化)の方向性と呼んでいます。
ダーウィニズム的進化のベクトルでもあります。
AIプログラムの多くは、ディープラーラングはもちろん、遺伝的アルゴリズムなど、
その背景は、ダーウィニズムの淘汰の思想の影響を強く受けています。
人間の心の動きほうが、パターン化して圧縮され、デジタル化が進んでいけば(外骨格化がすすめば)、
お地蔵さんに心を感じるのとは逆の意味で、AIと人の心が区別つかなくなるでしょう。
それによって人は騙されます。
この場合の心とは、単に外的刺激に反応して振る舞う、メカニズムのことになってしまいます。
いわば空っぽの心。
いや、心とはそういうものだ、と信じている学者や技術者は少なくありません。
本物や本質、意味を読み解く感性が失われ、外界に最適反応をする心・・・
アトリウムでは、そうしたことを念頭にして、人がAIに置き換わる様子を、ちょとホラー仕立てなSFストーリーとして紹介させていただきました。
そしてそして
他にも、体と自己他者の視点から、ロボットとAIの話題や、
カバラなどの西洋思想とデジタルやAI誕生の繋がりなどなど・・・
AIの現状と、過去から継承された思想背景や、今後の未来予想まで、さまざまな事例を取り上げながら、お話しさせていただきました。
AIは、”振る舞い”に特化した存在です。
そこには、そう”見える”ことと、そう”である”ことの谷間があります。
AIは私達に、人間や生命のように振る舞うことと、
人間や生命であることの違いを問いかけます。
その答えを自分なりに見いだせるなら、
AIを過度に大きな存在と期待したり、恐れることはなく、
うまく付き合えるでしょう。
AIがこれから益々進化していくのは間違いありません。
アニマンダラ的には、それが、“存在”に関する議論を活性化させることを、
期待しています。
ラストには、
そんなAIの登場によって、
人類が3つの方向性に分かれるかもしれない…そんな可能性を
古代文明になぞって言及して、終わらさせていただきました。
AIについて考えることは、人・心・生命について考えることです。
その意味から、変化する時代の流れに合わせて、
今後も不定期でAIを題材にしてみようと思いました。
感想
今回は、本質的な問いを含んだためなのか、
単に内容が盛りだくさん過ぎたのか?(笑)
後からメール等で個人的にメッセージをくださった方が多かったです。
反応は様々。
IT関連の営業をされているTommy Ricardoさんは、
FBにこのようなコメントを下さいました。
"ヒロさんは生命進化における生態にみる精神構造の観点で話すので、環世界と身体発達の観点の三体論には非常に親和性が高くて、とても納得なお話でした。ヒロさんも言ってたけど、AIの出現自体が問題なのではなくて、AIの出現は構造変化の象徴であって、より人間性とは何かと問われる局面となってくる。この問題に背を向けることは、AIの登場自体や仕事を奪われる、シンギュラリティで人間を超えられてしまう、と不安を募らせることになるのではないだろうか。
(略)AIは究極的な表象のみの存在のカタチだとしたら、「身体無き器官」ではないかだろうか「器官なき身体」「身体なき器官」を議論できるほど知らない人ので間違っているかもしれないが)現代の人は器官無き身体に向かうどころか、自ら身体無き器官に向かおうとしているように見える人もいる。意志決定せず、始終反応的受動的に過ごし、供給されたものを消費し続ける・・・
"
FBで、Tommy Ricardoさんとつながっている方は、直接ご覧くださませ。
「器官なき身体」とは哲学者ドゥルーズとガタリの概念ですね。
「身体なき器官」はその反語かな。まさに、外骨格的方向性ですね。
また、セルマンダラでいつも感想をあげてくれたnamiさんは、
彼女らしい、豊かな感想を下さいました☆
"
人間の事を考えてもわからなかったら、
AI側から観たらなんとなく定義が観えたような気がした。
"
と書かれていますが、私もそのように思ったことがありました☆☆☆
spaceopera13seed.hatenablog.com